黄昏通信社跡地処分推進室

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HEY/ナツゲーミュージアム/かつや

(↑この表記なんの意味があるんだろうか)
ウルフファング、3-B, 3-B, 3-B。上手くなっていないというか、やはり下手になっている。場面場面の攻略をちゃんと作らないとだめ。あとぼうっとしすぎ。自機のセレクトモード選んじゃうとかあり得ないだろ……(もっともあれは UI もよくないのだけど)。最後の回なんて 3-B の頭でウエポンキャリアー倒し損ねてそのままグレネードで死んだからね。そういうミスしてるうちは問題外。そしてこんなことをやってるうちに無くなってしまう。ダライアス、上下上下で ABEHM と進んだんだが M もかなりきついな。隕石早い&硬い&多いわ。つまり H に行くと上に行っても下に行ってもけっこう厳しい。たしか I もやばいんだっけ……とか考え出すとなかなか通るところなかったりするな。エスケープキッズ、6面までだったかな。どのパワーアップを買うかがほとんど運みたいに思えて結局毎度みっつともバランスよく買ってしまう。よくわからない。
晩ごはん、松屋で食べようと思って昭和通りまで来たら改装中だった!がぼーん。というわけで蔵前橋通りまで戻ってかつやで食べる。二週続けてマグロカツ定食。これはほんとにおいしい。

『オブジェクタム』 高山羽根子著 朝日新聞出版,2018-08

オブジェクタム

オブジェクタム

三編を収めた短編集。表題作「オブジェクタム」はやや長いが中編と言うには短いか。語り手が自分の育った町を再訪し、少年時代のことを回想する。町に時々貼られていた謎の壁新聞。発行人不明だったその新聞は、しかし書かれていることはしっかりしていて町の人にもけっこう人気があった。語り手は実は自分の祖父がそれを書いているということを知っていて、しかも取材や貼り出しなどを手伝っていた。町はずれの草深い空き地の中に張られたテントの中で人知れず活動を続けるふたり。だがその日々にも終わりが来る。まだ秘密を持っていたらしい祖父と、町に隠された別の秘密が、時を経て露わになる。聡明でまっとうな人だった祖父が壁新聞を通して地下水脈のように町の人に影響を及ぼしていたというモチーフはすごくよくて、それと最後にあらわれる秘密が呼応しているようでぐっときた。「太陽の側の島」は太平洋戦争末期頃の時代設定で、南方へ出征した夫と日本にいる妻との間で交わされた往復書簡の形式をとっている。おたがいの身に少し不思議なことが起きて、それがなんであったのかがはっきり示されることはないのだけど、最後にはどうやらおたがいがどのような関係にあるかが提示されて、そこですごくはっとさせられる。なんとも切ない読後感もあって印象に残る一品だった。三編目の「L.H.O.O.Q.」は逆に個人的にはあまり印象に残らなかった作品。ともあれ作者の他の作品もちょっと読んでみたくなった。

『世界史を変えた新素材』 佐藤健太郎著 新潮社:新潮選書,2018-10

世界史を変えた新素材 (新潮選書)

世界史を変えた新素材 (新潮選書)

歴史の最初の方は、道具とその素材によって語られる。石器時代青銅器時代鉄器時代。それぞれの素材を人間が使いこなせるようになって、文明が一歩進んだと見なされる。新しい素材を持つ文明は古い素材しか持たない文明を凌駕する。より頑丈な鉄の武器は青銅の武器を寄せつけなかったという話は教科書に必ず書いてあるし、初めて読んだときは感心したものだ。このあとは歴史は細分化していくのでこういう大雑把な呼ばれ方はしなくなるけれど、時代時代に人は新しい素材を使ってきた。本書ではそんな素材を一章ごとに取り上げて語っていく。
最初に登場するのは金だ。金については現代の少し手前までは「ありがたいが役に立たない」という評価が常だった。だがそのありがたさはずば抜けていて、世界各地で昔から金が採掘され、用いられている。そして近年になって電子回路という実用的な用途が見つかって金のありがたさはさらに増した。ここ 30 年で金の単価は倍以上になっている。ちなみにもっとありがたい白金は 20 世紀以降にやっと用いられるようになった。こちらは未だに実用用途は見つかっていない。
鉄は材料の王である。実際のところ、鉄はそれほど素晴らしい素材であるとは言えないらしい。たしかに普通に使っていれば錆びやすいし、頑丈さもそこそこで、加工もしにくい。だけどとにかく地球上にたくさん存在するのが最大のメリットで、そのゆえに人は鉄のさまざまな加工法や利用法を開発してきた。鋼鉄しかり、ステンレスしかり。おそらくはこれからも重要な素材としてのポジションを失うことはないのだろう。
ゴムは悲劇的な生い立ちを持っている。ゴム自体は早くから天然素材として広く知られてきたが、当初は温度変化に非常に弱く、夏はべたべたになって冬はかちかちになってしまった。これを改良したのがチャールズ・グッドイヤーさんだった。グッドイヤーはゴムに添加物を加えて変性を防ぐための実験を繰り返した。健康を害し、借金を抱えてしばしば投獄された。それでもグッドイヤーはあきらめず、とうとう今日まで用いられている加硫法を開発した。これによってゴムの強度は飛躍的に高まり、素材としての有用度も大きく高まった。だがその後もグッドイヤーは借金と訴訟から逃れられず、60 歳で死んだときにはまだ 20 万ドルの借金が残っていたという*1
とまあこのような調子でさまざまな素材について、比較的短いページ数でテンポよく語られる。素材の粒度がまちまちなのがちょっと気になるところで、たとえば「白磁」なんていうかなり狭いものがある一方で、「プラスチック」っていう宇宙かよ、みたいな広さのものもある。とはいえプラスチックを個々に語ってたら何十冊あっても足りないだろうしなあ。読みやすくてちょっと新鮮な切り口で、面白い本でした。

*1:ちなみに現在も存在するタイヤメーカー、グッドイヤー社は彼の名前に因んではいるが、本人や子孫との直接の関係は一切無いのだそうだ。それも泣ける。間接的に名前が残るだけでもまだましなのかもしれないけれど……。

はてなダイアリー時代のリンクが微妙になってしまっている件について

このブログははてなダイアリーから移行したものだ。はてなダイアリーには各日付のエントリに対する URL のポリシーが二種類あって、ユーザはそのどちらかを選ぶことができた。ひとつは一日分をひとつのエントリとして扱うもので、もうひとつは1見出しをひとつのエントリとするものだ。前者の URL は d.hatena.ne.jp/natroun/YYYYMMDD までで一日分で、エントリ内の小見出しはラベルをつけていた。すなわち d.hatena.ne.jp/natroun/YYYYMMDD#p1 というのが典型的な URL になる。一方後者では同じ見出しを d.hatena.ne.jp/natroun/YYYYMMDD/p1 とあらわした。個人的には見出しはあくまでも見出しであって、一日分の文章はひとつのエントリにまとまっている方が好きだったから、前者のポリシーを採用していた。
ところが、はてなブログでは前者の形式は使えない。移行するときに各見出しはすべて独立したエントリとされ(だから各年あたりのエントリ数が異常に多くなっている)、URL も natroun.hatenadiary.jp/entry/YYYY/MM/DD/xxxxxxxxxx という形式になっている。一方リンクまでは書き換えられないので、移行前のブログ内リンクは全部 d.hatena.ne.jp/natroun/YYYYMMDD#pn のままだ。これは移行後は natroun.hatenadiary.jp/entries/YYYY/MM/DD#pn にリダイレクトされるが、#pn というラベルはないので結果的に natroun.hatenadiary.jp/entries/YYYY/MM/DD が開かれる。これはその日のエントリすべてを一覧表示する URL で、曲がりなりにも全文を表示してくれるのだが、いかんせんラベルが効かないと当初意図した見出し部分が開かれる可能性は低い(たまたま一番上の見出しに対するリンクであればほぼ意図通りになるけど)。
というわけで、このブログの移行前からある記事を読む人がブログ内のリンクを踏んだとき、「あれ?」ってなる可能性はけっこう高い。だからと言って全部直すのは結構気が遠くなる作業になってしまう(エクスポートすれば機械的にできる方法がありそうではあるが)。ついでがあれば直すけれど、少なくともしばらくはこのままになってしまうと思う。

『デザインされたギャンブル依存症』 ナターシャ・ダウ・シュール著/日暮雅通訳 青土社,2018-06

デザインされたギャンブル依存症

デザインされたギャンブル依存症

これはけっこうすごい本だった。主にアメリカの、カジノに入り浸るギャンブル依存症の人の心理と、カジノ側のお金を搾り取るためのさまざまな戦略を、かなり微に入り細にわたって書いた本。
冒頭のインタビューがすごくて、ラスベガスに住んでてギャンブル依存症に陥っている人に当人の生活サイクルを図示してもらうのだけど、自宅が中心に描かれていて周りにカジノとか職場とかスーパーとかがあって、そこをぐるぐると回っているような矢印が書かれている。で、カジノはもちろんスーパーとかガソリンスタンドとかにもスロットマシンとかがあるらしい。それで「スーパーで買い物をして、今日こそは帰ってごはんを作ろうと思うんだけど、出口の側にあるスロットマシンを見るとつい打ち始めちゃって、気がつくと2時間経ってる」みたいなことを言ってたりする。どう考えてもやばいんだけど、そういうことになっちゃってる人が一定数いる、というのが現実らしい。
そもそもギャンブル依存症の人がどういう状態なのか、ということを、本書を読むまではあまりよくわかっていなかった。どこかで大儲けができるという幻想から抜け出せない人が射幸心とサンクコストのおかげでずるずると泥沼にはまっている、みたいなイメージがあったのだけど、事態はもう少し複雑でもう少し絶望的らしい。本書を読んでいると、儲けようと思っているうちはまだ大丈夫っぽいな……みたいな気持ちになってくる。ほんとうに深刻な依存症の人は、そもそも勝てるとも勝とうとも思っていないらしい。ただギャンブリングマシンとのやりとりに没頭して、周囲からなにもかもが消え去ってしまうような状態に入りたい、少しでも長くそこにいたい、ということを望むようになるのだそうだ。そのためには金銭が失われることも受け容れられるので、つまり依存症に陥っているプレイヤーとカジノとは最初から勝負をしているわけですらないのだという。むしろ共犯に近い関係なので、必ずカジノが最後には勝ち、コインを呑み込んでしまう。
その周囲からなにもかもが消え去ってしまう状態――本書内では「フロー」という言葉が多く使われている――をプレイヤーに与えるためにカジノはあらゆる努力を払い、さまざまな工夫をする。建築のデザインから客を迎えるための仕掛けがほどこされているのだという。そこにはある種のセオリーがあって、客を包み込むように、引きずり込むように、ストレスを与えないようになっている。カーブを多用すること。広すぎないこと、狭すぎないこと。ただし天井は低く、照明も暗くすること。温度は暑くもなく寒くもなく、音楽はどこか少し離れた一点から聞こえてくるように。

ギャンブリング・マシンがたどってきた進化が詳細に書かれているのも面白かった。アメリカのカジノにあるギャンブリング・マシンといえばスロットマシンで、滅多に当たらないがジャックポットの時にはものすごい枚数のメダルが出てくる――というイメージをおれは勝手に抱いていた。そういう人は多いのではないだろうか。確かに昔はそうだった。でもギャンブリングマシンは日々進歩を続けている。客の好みに合わせて主流はスロットからポーカーに移っていて、一攫千金のジャックポットから長時間プレイにシフトしつつあるのだという。
スロットマシンでリールの上に縦の線、横の線、斜めの線が引かれているのを見たことがないだろうか。あれがマルチラインの先祖で、最初は三本とか五本とかだった。ラインの数だけ賭け金を増やせば、どの線の上にシンボルが揃っても当たりになるというものだ。それがマシンのデジタル化でどんどん増えていって、27 ライン、50 ライン、ついには 100 ラインなんてマシンも登場した。ポーカーにおいても平行進化が起きた。これは「同じ初手で複数のゲームを楽しめる」という形態なのだそうだ。それぞれのゲームでは別々のドローが来て、違う結果がもたらされる。なるほど、いい初手が来たら嬉しい機能だし、悪い初手が来てもそう悪いものでもない。単純に複数のゲームを同時並行で遊べるよりはよほど楽しいだろうと思う。
かようにマルチライン、マルチゲームが当たり前になるととても同じレートではやっていられない。というわけでひと口あたりの金額は下がる。使われる硬貨はドルからクオーター、クオーターからニッケル、ニッケルからペニーとどんどん少額になっていった。TITO システムという実際のコインを用いる必要がないシステムが導入されて、プレイヤーは1セント玉の山に埋もれる心配はしなくてよくなった。残されたマシンは、当たる機会はめちゃくちゃ増えたが当たったところで金額的には大したことなくて、長期的にはプレイヤーはじわじわむしられ続け、一発逆転のジャックポットなんてそもそも存在しない、おれなんかから見れば地獄のようなマシンだ。しかしこれが市場に最適化されているのだという。おれはこのことこそが本当におそろしいと思う。ジャックポットを夢見て金を失うのは、まあ愚かかも知れないが、でもある種のかわいげがある。しかし現在のギャンブリング・マシンとそれへの依存症はとてもそんなものではないのだ。
面白い――と言ってはいけないのかも知れないが――のは、プレイヤーはかようにマシンとの長時間の対峙を望むのに、定額で一定時間遊べるという方式には完全に背を向けるらしい。でもまあ言われてみればそれはそうだよなとも思う。金銭のやりとり自体は絶対に必要だ。結果的に同じ金銭と同じ時間を失うのだとしても、それが最初から保証されていたら何の面白みもない。とはいえそれはまあ「普通の」感覚なので、依存症の人でもそこはおんなじなのねー、というところはやはり面白いというべきなのだろう。

アメリカで近年カジノが増えている理由が、そもそも各州の税収が減っていて、それをカバーするために州政府がカジノを運営しているみたいなことらしく、それはほんとにおぞましい話だと思うけど、ひるがえって日本では脱法賭博であるパチンコがギャンブル的な意味で似たようなポジションにあるわけだから、あまり人のことは言えない気もする。冒頭のインタビュイーのように事実上破滅してしまっている人が日本にもいてもおかしくない。ギャンブルはドラッグではないが、ギャンブリング・マシンはともすればドラッグよりもはるかに的確に精密に脳に快楽とストレスを繰り返し与えることができてしまうのではないか。
思うところの多い本でした。ボリュームはかなりあるけど、おすすめ。

夏の誕生会

一族の夏の誕生会が開催された。これまでは年三回から四回開催してたのだが流石に大変だろうということで、四月から九月と十月から三月でまあ二回ぐらいやればいいんじゃないのということでこのような名目になっている。(が、今後もこれで行くかどうかはまだ不明。)
今回はなんとなく我が家でお店を手配することになって、近所のちょっとよさそうで気になってた店がふたつほどあったので電話してみる。片方はだめだったが、もう片方の中華料理屋さんは幸い予約が取れた。なにしろ都合の合う日程が一日しかなかったし、小さいお店で我々が入ったら貸し切りになってしまったぐらいだからよくとれたなと思うほかない。普段は小さい子供は受け入れてないのだけど、貸し切りの場合は例外なのだという。いろいろなことがかみ合い本当に幸運だった。
メニューはコースしかないらしいので予算だけ決めてあとはおまかせする。前菜からして繊細でおいしい。魚料理も、魚もおいしかったし一緒に出てきた野菜もどれもおいしくて感動する。わけてもベビーコーンの新鮮なこと! これは生のベビーコーンじゃないとあり得ない味なのでうれしい。肉料理は揚げ春巻を選んだのだけど、珍しい材料はひとつもない一方で野菜と豚肉の味がくっきりしていて、皮がぱりっぱりに揚がっていてその皮と熱々の具材をかみ切る感触も楽しく、いつまでも食べていたいような味だった。そして担々麺の上品な辛さ……。ランチとはいえこんな値段でこんな料理をいただいてしまってよかったのかな、と少々申し訳ないような気分になる(しかもお店貸し切りだし)。
というわけで大変おいしゅうございました。母がおいしいと言ってくれたのが嬉しかった。大成功。
あとは我が家に移動してケーキを食べたりプレゼントを投げ合ったり。息子にプレゼントをもらうついでに娘もなにやらもらったりしていて、いつもながらありがとうございます。感謝感謝。