黄昏通信社跡地処分推進室

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『空のあらゆる鳥を』 チャーリー・ジェーン・アンダーズ著/市田泉訳 東京創元社:創元海外SF叢書,2020-05-09

中学の同級生だった魔法使いと科学オタクが、長じてから再び出会って世界を救う――これだけ読むとわけがわからないけど、そんなような話。
パトリシアは幼い頃小鳥を助けようとして、自分に特別な才能があることを知る。なんと動物と話すことができるのだ。パトリシアは猫から小鳥を守りながら、小鳥に案内されるままに森の奥深くに迷い込んでしまい、そこで鳥たちが集会を開いている巨大な“樹”を見つけ、謎めいた問いを投げかけられる。だがそこから先何年も、パトリシアには変わったことは訪れない。
ロレンスは手を動かすタイプのギークで、幼い頃からいろいろなものを作ってきた。中でもネットのどこかで拾った設計図を元に作った腕時計のような機械はすごい代物で、なんと正真正銘のタイムマシン。といってもきっかり二秒未来に進めるだけなのだが、ロレンスはその二秒を上手く活かす方法をいろいろ考えて実践する。そしてあるとき親に秘密で家を飛び出し、バスを乗り継いでロケットの打ち上げを観に行く。そこで初めて自分の仲間に出会うのだ。
ふたりは中学校で出会う。冴えないはぐれもの同士として。惹かれ合う、というほどではない。食堂の長机の端の方や、廊下の片隅や、学校の敷地内の森の中で――つまり、ふたりとも他に居場所がないから同じようなところにいることになってしまう。ふたりは話す。パトリシアは魔法を見せ、ロレンスは機械を作る。しかしやがてふたりの行く先は分かれてしまい、それぞれの道を歩き始める。
それでも、大人になってからもふたりの道は折に触れて交差する。それはほとんどあざといほどなので嫌いな人は嫌いかもしれないがおれはけっこう好きだった。いろいろあって状況は悪化し、ふたりはとうとう最終局面に、対立するもの同士として立つことになってしまう。科学者は科学者、魔法使いは魔法使いとして世界を救おうとするのだが、それぞれのやり方は決して相容れることがない。
現在をベースに、ファンタジーと SF のがっつり同居した世界というのはあんまり読んだことがなくて、なかなか楽しかった。レンジとしては「ヤングアダルト」になるのだと思うけれど、面白いものは面白いです。
あと、著者の名前気になった人もいるかと思うけど、トランスジェンダーの方なのだそうです。読むぶんには別にそれだからどうってことは全然感じなかった(おれは読み終わってから知った)。

ただでさえ忙しかったり職場が暑かったりしてストレスの溜まる中、なんかかゆいなと思ったら蚊が職場の自分の席にまで入り込んできてて、叩き殺したときには四箇所も刺されていた、もうほんとうにぶっころすという気持ちになりますね。よろしゅうない。蚊はあんまり暑すぎると活動できないなんてことを申しますが、だいたいそういうときは人間も活動できないもんで、その事実は助けにはならないという。

人工肉

今日も妻の作ってくれた晩ごはんをおいしいおいしいといただいて、「はーおいしかったあー」と言っていたら妻が実は今日のニンニクの芽の肉味噌和えに使われていた肉は本物の肉ではないと教えてくれた。ぬにー。そしてそう言われてみると微妙にコクの足りない、何肉だったかわからない感じの味であったことに気づいた。うーん面白いね。日常に忍び入るディストピア。いやな感じの未来はしっかり来ている、というか。

『測りすぎ――なぜパフォーマンス評価は失敗するのか?』 ジェリー・Z・ミュラー著/松本裕訳 みすず書房,2019-04-27

パフォーマンスを定量的に評価したい、という要請はあちこちにある。成果がお金にならない分野であればあらゆるところにあると言ってもいい。組織の上位者は、リソースを注ぎこんだところがどれほどの働きを上げているかを知りたいからだ。
しかし本書では具体的な事例を挙げながらほとんど徹底的にパフォーマンス評価を否定している。まず、そもそも数値化するのが難しいということ。データを集めること自体にリソースを使わなければならないこと。往々にして、職業的誇りとデータ取りや指標の向上が対立すること。評価の指標となった項目だけを向上させようとしてしまうこと。あげられた成績ではなく、注ぎこんだ労力を指標にしてしまうこと。データ改竄のインセンティヴが高くなり、それを防ごうとするとますますリソースを使うこと。……などなど、上手くいかない理由は枚挙にいとまがない。実際、これを読んでいて思い当たるふしがあるひともいらっしゃるのではないだろうか。
具体的な例は滑稽で、ほとんど悲惨ですらある。患者の待ち時間を短くしようと考え、そのために待ち時間を評価対象とした病院でなにが起きたか? 救急車で搬送されてきた患者を病棟外に留め置き、実際に受け入れるまでの時間を待ち時間にカウントしなかったというのだ。有罪率を指標にすれば難事件は検挙されなくなり、検挙数を指標にすれば微罪ばっかり検挙される、なんて話はなんとなくどっかで聞いたことがある。
むしろパフォーマンス評価が役に立つのはごく限られた場合だけだという。米国で、複数の病院で気管挿管の際のオペレーションを改善することで大幅に感染を減らすことができたというプロジェクトがあったそうだ。しかしそれは現場の人たちが主体的に取り組んで、自分たちの業務を改善しようと自ら導入した評価だったから、アウトカムの向上につなげることができたのだ、と著者は書く。そしてそういう例はごくまれである、と。あとは、わりと重要度が低い/代替が効く業務については比較的パフォーマンス評価は成果を出しやすいそうだ。
個人的にパフォーマンス評価とわりとがっつり縁がある会社で働いているので、なかなかつらー、な本だったが、それはそれとしてすごく面白かった。広く読まれてほしい本と思う。

東京リボーン・5

息子が愛してやまない NHK スペシャルのシリーズ「東京リボーン」。まあ特別に素晴らしい番組というわけではないようにも思うけれど、東京の最新の再開発を切り口に都市のグランドデザインとか現場工事の大変さとかを描いてみせる、NHK ならではの気合いの入ったドキュメンタリーだ。今回の題材は渋谷駅周辺で、渋谷駅の埼京線ホーム移設工事を軸に周辺の地勢や鉄道乗り入れの歴史を語っていた。よくできているし文句なしに面白いんだけど、批判とか問題提起とかは徹頭徹尾含まれていない。おかげで気楽に観られるといえばまあそうかもしれないが、やはり多少の物足りなさはあるかな。

『情動はこうしてつくられる――脳の隠れた働きと構成主義的情動理論』 リサ・フェルドマン・バレット著/高橋洋訳 紀伊國屋書店,2019-10-31

最初に書いておくと、すごく面白かった。のだけど、感想を書くのはけっこう難しい。
情動ってどういうものだろうか。喜びとか、怒りとか、驚きとか、悲しみとか、そういうもの? ふむ。そうだとして、それって人間が生まれつき持ってるものなんだろうか。世界中の人が、当たり前に共有しているものなんだろうか。――というのがこの本の出発点。従来はそれらは生来のもので、世界中で共有されていると思われていた。そうであるということを示した実験もこれまでに山ほどある。しかし残念ながらそれらは誤りだ、と著者は大胆にも主張する。そもそも人の情動の表出すら一定ではない。「怒っている顔」を正確に分類することは誰にもできない。表情筋をいくら分析しても、これが怒りの表情だというものを同定することはできないというのだ(これは著者の主張によれば実験で確かめられている。)。あるのは身体の反応だけ。外界からの刺激に対して身体は反応する。その反応について、わたしたちは少しずつ、その反応が自分にとってどういう反応であるのか――すなわち、それがどのような情動であるのかを学んでいくのだという。幼い子にとっては反応は快か不快かしかない。その不快が「悲しい」なのか「きもちわるい」なのか「おなかすいた」なのか、本人はそれを弁別することができないから、ただただ泣き叫ぶ。周囲の大人がそれに対応して、おむつが汚れていれば「気持ち悪かったんだね」、ミルクをぐいぐい飲めば「おなかすいてたんだね」、と分類する。そのフィードバックを受けて、幼い子は「ああ、これは『きもちがわるい』なんだな」「これは『おなかがすいた』なんだな」というように自らの反応を情動として認識していく。これは子供を見ているとかなりのところまで納得するところではある(もちろんそれで正しいということにはならないが)。子供の感情や情動は未分化で、娘など見ていると未だに不快を全部怒りとして表出させているようなところがある。それは少しずつ身につけていくものなのだという言説には説得力がある。
自分の身体の反応を誤った情動に結びつけてしまうという事例も紹介されている。著者自身がかつて、あまり親しくない隣の研究室の院生に誘われて気が進まないながらごはんを食べにいったとき、途中で意外にも何回か胸がどきどきしたり頬が紅潮することがあって、あれ、自分では意識してなかったけどわたしこの人に惹かれてたのかもと思い次のデートまで約束して帰ったら、家に着いてすぐ気分が悪くなって吐いた。ほどなくインフルエンザにかかっていたことがわかった……というような話だった。病原体による身体の変化を情動として認識してしまったわけだ。この本には出てこないが(だから本当に適切かどうかわからないのだが)もっとキャッチーな例をおれたちは知っている。“吊り橋効果”だ。あれは高いところにいるときの身体的反応をときめきと誤解させようというものだが、原理としては同じだ。情動があって身体が反応するのではない。身体が反応して、それをなんらかの情動として理解するのだ。
だから、その文化に固有の感情、というものが存在する。本書ではいろいろな例が挙げられていたが、日本語の例もふたつほど入っていて、ひとつは「ありがた迷惑」だった。もちろん名前がついていないだけで、ありがた迷惑という状況は多くの文化に共通するものだし、その言葉が無いからといってそういう状況におかれた人がなにも感じないわけではない。だけど、そういう情動の概念を持っていることで、その人はより明確に自分の反応を認識することができる。

という感じで、個人的には説得力があると感じたし、面白いと思った。
それにしても、脳神経学についてはやはり専門家の間でも人によって主張する説が大きく異なっていて、素人としては困ってしまう。一番顕著なのが局在論と全体論の対立で、本書の著者バレットはかなり全体論寄りのようだ。局在論側の人は平気で fMRI でこうだったからみたいな話をするし、全体論の人はそんなの意味ないだろぐらいのスタンスをとる。それだけまだわかっていないことが多いということなのだろうけど、なかなかもどかしくもある。

認可の申請(※「建武の新政」みたいな感じでひとつ)

というわけで役所へ。このかつかつのスピード感、テンションは上がるしこういう感じが好きな人がいるのはなんとなくわかる気がするんだが、自分としては五年に一度ぐらいでいいかなというかんじである。説明とかに時間かかるかと思いきや提出して終わりだったので思ってたよりはるかに早く上がれた。んふー。普段だったら勇んで寄り道するところだけどまあ自粛中なので大人しく帰る。とはいえひさびさに早く帰れてうれしい。