『テクニウム――テクノロジーはどこへ向かうのか?』 ISBN:9784622077534
著者は Wired の創刊時の編集長で、現在は Cool Tools というサイトを管理していたり、ライターとしてあちこちに書いたり、まあそんなような人。若い頃大学を中退してアジアで長いこと暮らし、その時には電気や水道の届いていないような地域もずいぶん体験したという。その後アメリカ大陸を自転車で横断し、アーミッシュの暮らしに興味を引かれた。そうこうするうちに、テクノロジーというものに対してどう向き合えばよいか疑問を持つようになって、正しい向き合い方を知るためにはテクノロジーの本質について知る必要がある、と考えるに至った。それに関する調査と考察が結実したのがこの本だ、ということらしい。
テクノロジーについて考えるにあたって、著者はまずテクノロジーとはなんであるか、からはじめようとする。テクノロジーという言葉は意外と最近の言葉で、1802 年にヨハン・ベックマンによって提唱された。それまでは科学技術だけを特別に指す言葉はなく、「有用なアート」とか呼ばれていたらしい。そういえば職人はアルチザン artisan だ。ともあれ現在テクノロジーという言葉は特定の分野における科学技術、みたいなことを指す。しかし、著者が議論したいのはもう少し広い範囲の事物だ。科学技術全体を含む、のみならず、言語や工作物や芸術作品やそういったもの全体を包摂する概念について議論したい。それを著者は「テクニウム」と名付ける。
それから過去、現在、未来におけるテクニウムの、様々な側面をいろいろな角度から膨大な知見を基に語り倒していく。ここから先がべらぼうに面白い。まずテクニウムは別に必ずしも人間を必要とはしていないという。あれっと思うが、サルやカラスでも道具は使う。シロアリは蟻塚を、ビーバーはダムを作る。それもテクニウムには違いない。なるほどそうだ。
そしてテクニウムの進歩は加速する。ムーアの法則*1は有名だが、同様のパターンは様々なテクノロジーで見られる。それはテクノロジー内部に起源を持っているからだ。
進歩の方向にもどうもある程度の必然性が内在されているのではないかと著者は書く。アレキサンダー・グラハム・ベルが電話の特許を取るのにライバルに2時間先んじた話は有名だが、テクノロジーの世界では類似発明は枚挙にいとまがなく、タイミング的に近い例も多いのだという。そこまでに積み上げられてきた技術があれば、次の一歩はある程度見えるというのは感覚的にも納得できる。
この話と並列して書かれていた進化の話がすごく面白い。突然変異と自然淘汰という進化の古典的なモデルで説明しにくいのが「眼」という感覚器官で、何故かといえば眼が機能するためには瞳孔とレンズ(水晶体と硝子体)と網膜がぜんぶ必要なわけだが、どれひとつとっても単体では役に立たないからだ。にもかかわらず、長い生命の歴史の中で眼は六回も発生しているのだという。これは生物の進化のシステムの中にそういう必然性が内在しているということではないかと著者は考える。まあミクロの必然と長期的な必然はまた違うわけだけど、大きな意味での方向性が内在している、のがここで大事なところだ。
と考えていくと、テクニウムはそもそも人間にコントロールできるものではない、という考えにいたる。進歩の速度も方向性もそのシステムの中に含まれているのだとすれば。実際一度発明されてしまった技術を禁止しようとする試みは歴史上一度も成功したことがない。というわけで、
システムは人間の要求を満たすためには存在しないし、存在もできない。その代わりに、システムの要求に合わせて修正されるのは人間の行動の方なのだ。政治や社会のイデオロギーはテクノロジーを導くように装うかもしれないが、それとはまったく関係ない。システムはイデオロギーではなくテクノロジーの必要性に導かれているのだから、これはテクノロジーの責任なのだ。
ということになるのだが、これを書いたのは著者ではなくテッド・カジンスキー、「ユナボマー」として知られる狂ったテロリストだ。なんて話も出てくる。
それで、そもそもの問いのきっかけであったテクノロジーに対してどう向き合うべきか、という話はこのあと出てきて、まあ身も蓋もなく言っちゃうと予防原則はうまくいかない、アーミッシュのやり方がいいんじゃない、みたいな話なのだけど、少し結論ありきという感じがしないでもない。とはいえ一理あると思わせる内容で、自分なりに敷衍して参考にするのもよいかも知れないとも思った。
とにかく博覧強記というか、この本全体に目がくらむほど情報量と考え方が詰まっている。テクノロジーとのつきあいは避けようがない今の世の中で、そのつき合い方に際してのスタンスを決める上で参考になることはいろいろ書かれている。日々進歩する技術を積極的に取り入れるのか、それとも様子を見るべきなのか、普通の暮らしをしていてもその選択に直面して悩むことは多い。
もちろんテクニウムという概念、その位置づけについてもすごく興味深く楽しく読んだ。個人的には「生物の第七界に相当するものだ」というあたりはあんまりぴんと来なくてそれは盛りすぎでは……と思うのだけど、それでも魅力的なアイデアだと思う。
んでもって
これはあらさがしというか……。
本文 130 頁、生物の進化における各種の制約に関連する部分で、哺乳類の生涯の心拍数が大体同じになる(ゾウのように心拍数が少ない動物は長生きで、ネズミのように心拍数が多い動物は短命)、という有名な話が出ていたのだけど、つい最近「その仮説はとても魅力的だけど近年否定された」という言説を確かにどこかで読んだ。読んだのだが、それがどこだか思い出せない。このところ読んだ本は全部このブログに書いているから本じゃないことは確かで、だとするとウェブサイトなのだが、それを読んだ時におれは「ここに書いてあるから多分これは本当だろう」と判断したことも憶えている。自慢じゃないがそんなにアカデミックなサイトを見る質じゃないので、そういう判断を下すようなブログもごく限られていると思うのだが、どこだったかわからない。
あと
本書の中に、現在の状態から生物の進化を少し前の状態に戻す、という仮定の話をするところで「テープを巻き戻す」という表現を使い、そこに「若い読者のために」と注がついていた。がーん。それはいいとして、類似の表現として「映画をフィルムで撮る」「エンジンをクランクで回す」*2なんてのが出てたんだけど、そこに原注がついてて、Wikipedia の skeuomorphism の項が掲げられていた。skeuomorphism は最近ではどうも片仮名で「スキューモーフィズム」とも言ったりするらしいが、溶接された車体のフェイクリベットとか、デジタルだと日付を入力するインターフェースで壁掛けカレンダーが表示されるのとか、そういうのを指すらしい。ただ film とか crank up がこれらと同類かどうかがちょっとよくわからない。というか、微妙に違うんじゃないの、と思うのだけど。
*1:最近終焉を迎えたらしいですが→http://www.gizmodo.jp/2016/03/MooreEnd.html
*2:どちらも日本語だとなんだかわからないが、英語だとそれぞれ film と crank up が動詞になっている。