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『意識と感覚のない世界――実のところ、麻酔科医は何をしているのか』 ヘンリー・ジェイ・プリスビロー著 小田嶋由美子訳 みすず書房,2019-12

全身麻酔に漠然とした興味がある。よく考えてみると、あれはすごく変なものではないか? なぜ意識や感覚を失うのか、なぜ記憶が混乱するのか、そして最大の疑問は、なぜほとんど完全に可逆的なのか。2月に入院したときにはからずも受けたのだが、やはり極めて特殊な経験だった。手術台の上で透明なプラスティックのマウスピースみたいなものを近づけられたところまではわりとよく憶えているが、次の瞬間はもう病室のベッドの上だった。起き上がってトイレに行こうとしたりはしていたらしいが、その辺はまったく憶えていない。「もう病室のベッドの上だった」と書いたが、どこから憶えているかと言われると極めて曖昧で、眠りから覚めたときとはだいぶ違うようだ。
ということでその辺に触れられたら面白いな、と思いつつ読んだのだが、その意味では期待は裏切られた。おれが上で書いた疑問に関する答えは基本的にない。もちろんまだわかっていないからで、それは知っていたのだが、そもそもそこにアプローチしていく趣旨の本でもなかったのだった。臨床において麻酔で大事なことが五つある、ということは書かれていた。その中にはスムーズに覚醒させることとか不安な感覚を残さないこととかが挙げられているんだけど、それと並んで「記憶を失うこと」というのが含まれていたのが面白かった。記憶を失うのは副次的な作用ではなく、少なくとも麻酔科医としては積極的にもたらしたい効果らしい。いずれにしてもその辺りは徹底的にプラグマティックな記述に終始していて、機序についてはまったく書かれていなかった。
代わりに何が書かれているかというと、長年の臨床経験に基づく患者との関わりかたと、個別の事例についてだ。麻酔科医は患者に対して他の医者とはだいぶ違う接し方をする。手術の十分前に初めて顔を合わせて、手術が無事に終わればそのまま会うこともない。考えてみればそうなのだが、言われるまで意識したことがなかった。だがそんな中でも印象に残る事例や未だに残る悔いについて、著者は巧みな筆で描いてみせる。その手つきは巧みで、訳もやわらかくすいすいと読めてしまう。ということで麻酔科医の職業的体験談としてはそこそこよかった。日本語のメインタイトルがややミスリーディングかなあ。原題は「Counting Backward」。これは著者が麻酔の導入の時に患者の気を紛らわすために「100 から数を逆に数えてください」って頼むことから来ているんだけど、題としてはぴんと来ないので変えたこと自体は悪くないと思う。ちなみに全身麻酔をされた患者が 100 からいくつまで数えられるかというと――答えは本書を読んでみてね。