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キャラクターの話 (1) :「登場人物が勝手に動く」

これ2年ぐらい前に書いた話。予告までしていたのに殆どお蔵入りになっていたが、もしかするとこれでも読んで面白いと思う人も居るかも知れないし少し手直しして載せてみる。

先日*1妻と話してる時に、何故か「(フィクションにおいて)登場人物が勝手に動く」というような言説についての話題になった。プロの作家でもそのようなことを言う人は少なくなく、その一方でまったくそんなことはない、という人も居る。
前者の極端な例はアーシュラ・K・ル・グインで、「わたしは登場人物を作りはしない。ただ見出すだけだ。その世界に居る人物を発見してわたしは書くだけだ」というようなことをどこかで書いていたと思う。殆ど作家の作為の否定に近い。
後者の例には森博嗣が挙げられる(ようだ)。勝手に動くなんて理解できない、というようなことを言っているらしい。『すべてがFになる』しか読んだことはないが、まあそういうことを言いそうな感じはする。ソース一切ないけど、田中芳樹京極夏彦もこちらに入りそうかな、と個人的には思う。
極めておこがましいのを承知で書くが、おれにはこの「登場人物が勝手に動く」感覚はよく解る。もちろんおれはプロの作家じゃないし、多分起きている現象のレヴェルはまるで違うだろう。だけど、いくつかの条件が揃った時に、キーボードを打つ手も追いつかないぐらいの勢いで、自分の作り出した筈の登場人物が喋ったり走ったりし始める、ように感じられる。フィクションを書いていると、そういう瞬間が確かに訪れることがある。
ちょっと根本的な話にもどろう。
登場人物を描くというのはどういうことだろうか。ある人物を想像して、その人物のするであろう振る舞いを描く。たぶん、なにをするか、よりも「どのようにするか」のほうが重要になる(「なにをするか」は、どちらかといえばストーリーの範疇に入る)。その振る舞いをいくつか書いていく中でそれがその人物の性格を規定していく。
ちょっと逆説的に聞こえるかも知れないが、そもそも性格というのはそういう概念で、この人はこういう性格だからこう振る舞う、のではない。この人はこういう振る舞いをする人だ、ということをあらわす言葉が「性格」だ。
とはいうものの、ある登場人物を新たに登場させるとして、性格もなにも決めないということはまずない。ある程度は「こういう性格のひと」というのを最初から決めておく。その人物の行動を書く時、「こういう性格だと多分こういう風に振る舞うだろう」というのを考え考え書く。この段階では、まだ勝手に動くとはとても言えない。
それが、ある程度その人物を書いていくと、上手く書ける場合は、だんだんその「考え考え」の部分が短くなっていく。そして、多くの場合はその人物の振る舞いが一貫していく。振る舞いが一貫していくということは、性格が決まっていくということだ。先ほどからトートロジーめいているが、おれの個人的な感覚では、登場人物というのはこういう風に出来て行く。
もちろん必ずしも上手くいかないこともある。いくら書いてもどうもしっくり来ない人物、というのもできてしまう。書いている方も人間だから、書きやすい性格と書きづらい性格はある。例えば自分に似た性格の人物は書きやすい。自分が嫌いなタイプな人間というのも、案外書けたりする。自分と無縁だと思っているタイプの人間は書きづらい。とかなんとか。多分人間観察が上手な人は書ける性格の幅が広い。
さておき、ある人物を書くことが突き詰まっていくと、ついには深く考えずに半ば反射的にその人物の振る舞いを書くことができるようになることがある。それが「登場人物が勝手に動く」ということだ。
これはなかなか気持ちいい状態で、なにしろすらすらと書けるし、おれの場合はそこにあらわれる人物は大抵予定通りにならないというおまけがついてくる。つまり、「最初に性格をおおまかに設定する→考えながら書く→実際に性格が決まる」という過程を経る間に、大体性格が多少の差はあれ変わってしまうのだ。もちろん多くの場合は凡庸な人物しか出来ないのだけど、時々自分の考えていた人物像を超えるキャラクターが立ち上がってくることがあって、そういう時はとても楽しい。
ちょっと話が逸れたので元に戻すと、登場人物が勝手に動く、というのは、細部は違うかもしれないが、大体上で書いたようなことなんじゃないかと思う。決して意志や作為が入りこまないわけではないけど、作者の中でのその人物の性格が固まっていくにつれて、書くべき振る舞いが瞬時に決まるようになっていくこと。
こういうことが起きる人と起きない人が、プロの作家の中にもいるのだろう。むしろ、する人としない人が居ると言うべきかも知れない。それはいい悪いではなくて方法の違いに過ぎない。ただ、どちらかというと前者の方が多いのではないかな、という気はする。そういう資質がある人が、作家を目指しやすいと思うからだ。
いささか長くなってきたので今回はここまで。次回は登場人物の性格が予定通りにならない理由をもう少し詳しく書いてみる心算。

  • 余談1:ここでは性格の話に絞ったけど、例えば背が高い人物がつり革をつかむシーンを書こうと思えば多分つり革の輪ではなくて革の部分を握る筈で、そういうのももちろん「登場人物を書く」ことには含まれる。つまり登場人物⊃性格というイメージ。ただこのような例は性格とは逆に人物(の設定)が先にあって、それが行動を規定する、という順番になるので、ここでは触れない。これはこれで書けることありそうなので、思いついたら書いてみようとは思う。
  • 余談2:上でル・グインについてちょっと書いたが、ル・グイン本人はどうも「世界は自分で作るもの」(そしてそこに居る人を見出して、その人の生きる様を物語に仕立てる=つまり「登場人物と物語は自分が作るものではない」)と捉えているように思われる。実際初期の代表作『闇の左手』『所有せざる人々』辺りは世界と社会が主人公というべきだろう。まあ SF ってみんなそうだけど。一番そのスタンスがはっきりしてたのが怪作『オールウェイズ・カミングホーム』で、あれは物語性を排除して世界を提示しようという試みだったんだと思うが、流石にリーダビリティが低過ぎて読むのしんどかった。興味深い作品ではあるが、面白いというのとはちょっと違う気がした。

*1:つまり2年前