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『絶対音感神話』 宮崎謙一 化学同人/DOJIN選書,2014



絶対音感神話』 ISBN:9784759813609


この本を知るきっかけになったのは、著者が自身のウェブページで公開していた研究成果報告書を目にしたことだった。「絶対音感保有者の音楽的音高認知過程」と名づけられたその報告書は読み物としても大変面白く、かなり興味深く読んで、はてブにも書いた。余談だが「1997年度〜1998 年度 文部省科学研究費補助金 (基盤研究 C ) 研究成果報告書(1999年3月)」という副題がついていたのでこれは科研費いいとこにつけたなーと言わざるを得ない。まあ2年限りの基盤Cで総額 120 万円(直接経費のみ)ぐらいだったみたいだけど。
閑話休題、目にしたときにはまだこの本は出版されていなかったが、一年ぐらいしてからもう一度読みたくなってその報告書を見に行ったときに、こういう本を出しました、と控えめに紹介されていて、それで知った。


絶対音感自体は著者の長きにわたる研究対象だったが、本書の前書きを見るとそれとは別にこの本を出すに至った問題意識がうかがえる。曰く、近年、とりわけ最相葉月の『絶対音感』が世に出てから、絶対音感という言葉は市民権を得て、ある種のブームと言える状況すら起こした。だが世の中の人の絶対音感に対する理解はあまりに浅く、あるいは偏っていて、本来の理解にはほど遠いように見受けられる。他方、著者は研究を進めているうちに絶対音感が音楽にたずさわる者に対して与える正の影響は限定的で、むしろ悪い影響を与えてしまうことも少なくないという確信を得るに至った。その辺りの認識の乖離を少しでも埋める助けになれば、というようなことが執筆の動機のひとつとなっているようだ。
ちなみに著者は『絶対音感』自体はそれなり以上に高く評価しているようで、この本の「はじめに」の項で「ジャーナリストとして偏りのない立場で絶対音感をさまざまな角度から取り上げた労作」と評していることは書いておこう。逆に『絶対音感』の中でも著者の研究が1ページほど使って紹介されていることも記しておきたい。


さて、本書ではそもそも絶対音感とは何であるか、というところから丁寧に話が始まっていく。「絶対」というのは単に「相対」の逆に過ぎないのに日本語の「絶対」には全くとか完全とかいうニュアンスがこもることがあるので誤解を招きやすい、という指摘は的を得ていると思う。著者の調査によると絶対音感を持つ人と持たない人ははっきり二群に分かれるようなものではなく、強い人からほぼ全くない人まで綺麗に線形の分布をしている。つまり「ある」「ない」はそのどこかで意図的に線を引かない限り区分できない。
という前提の上で、絶対音感のある(強い)人と、不完全な絶対音感のある人、絶対音感のない(弱い)人を対象に行った実験の結果を順次つまびらかにしてゆく。絶対音感のある人は単純な音の高さを聞き取るテストには断然強い。しかし、相対音感を測るテストになると様相が変わってくる。そして著者は問う。絶対音感相対音感、ほんとうに音楽に必要な能力はどちらなのだ、と。


少し先走りすぎた。書かれていた中ではどれぐらいの人が絶対音感を持っているかの割合の話が面白かった。かつてバッチェムが示していた「一万人にひとり」という数字はそもそも根拠もなく、ほとんど無意味な数字であるという。実際にはトップクラスの音楽教育機関だと、欧州と米国にはさほどの差がなくて 10% 弱。ところが日本と韓国と中国は突出して高い。日本では「絶対音感教育」が早期音楽教育の中で一定のポジションを得ているのは『絶対音感』で出てきた話だから知っていたが、韓国と中国もどうやらそうであるらしいというのは面白かった。
登場した実験で興味深かったのは絶対音感保持者の「ストループ効果」を検証するもの。ストループ効果というのは例えば文字の色と文字の意味のように同時に入力される情報同士が干渉する現象のことで、「この文字の色を答えなさい」という課題が与えられたときに、赤いインクで「あか」と書かれている場合より青いインクで「あか」と書かれている方が回答に時間がかかる、という現象のことをいう。ここでは音高に関する実験なので、たとえばFの高さで「G」と歌い、高さを答えさせる。するとやはりストループ効果が発生して、Fの高さで「F」と歌うよりも回答が遅くなる。そこまでは意外でもない。おもしろいのは、Fの高さで「G」と歌い、何と歌っているかを答えさせる、という課題だ。絶対音感を持つ人は、なんとこれでも回答が遅れたのだという(逆ストループ効果*1)。音高を無視して相手の発音をおうむ返しすればいいだけなのに、耳に入る音の高さがそれを邪魔する。そこまで反射的に機能してしまう能力なのだ、という説明だった。


ともあれ、実験やその結果をじっくりと書き、絶対音感について少しずつ読み解いていく筆致は丁寧で、文章にも科学者の慎重さが行き届いている。ずばりずばりと読者の疑問を捌くような本ではないが、自分のような科学の素養のない者にも絶対音感のなんたるかを説得力を持って伝えてくれる。大変興味深く、また面白い本だった。絶対音感ってなんなんだろうと気になっている人にはおすすめしたい。

*1:この本では色と言葉の場合は逆ストループ効果は現れないとされていると書かれていた。確かに文字のインクの色を無視して単語を読むことはたやすいように思える。