- 作者: 大岡昇平
- 出版社/メーカー: 東京創元社
- 発売日: 2017/11/22
- メディア: 文庫
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神奈川県の真ん中あたりで、工員の少年が恋人の姉を刺し殺した。少年はその直後に恋人と一緒に新生活を始めるが、ほどなく死体が発見され、目撃者もいたために少年は勾留される。恋人は少年の子を妊娠していた。姉はそのことを知り、ふたりの新生活を邪魔しようとしたために少年に刺し殺された……というストーリーが浮かび上がる。そして裁判が始まり、事件にまつわる事実が少しずつ明らかになってゆく。
事件については序盤に比較的あっさりと語られ、そこから事件の大枠自体は大きく動くことはない。事実関係においての大きなどんでん返しはひとつも起こらないのだ。にもかかわらず、裁判が進み、いろいろな証言が出てくるにつれて、事件の見え方は大きく変わってくる。物体の形は変わらなくても、見る方向や光の当て方を変えるだけでまるで違うものに見えたりする、そんなようなことが事件についても起こるのだということを、本作はありありと描いてみせる。考えてみると事件というのはひどく曖昧なものだ。少年が恋人の姉を殺したことは事実としてある。しかし事件というのはそのことだけではあり得ない。恋人がいて、目撃者がいて、恋人の姉の店があって……、という係累の中で起きた殺人という事象が事件として捉えられる。ほとんど無限の見方があり、かぎりなく形を変えうる。
作品中での視点は少年の弁護士である菊池に置かれる場面が一番多い。法廷のシーンでも菊池の視点が多く、上手く引き出せた証言や、逆にあまり効かなかった言葉があったりということを意識しながら話を進めていく。これがよく取材されていて面白い。いかにもさもありなむという駆け引きや局地的な勝ち負けが登場する。一方で、ふっと裁判官の視点がさしはさまれる。上席の裁判官が昼食に蕎麦を食べれば自分も蕎麦にするとか、自宅で妻から事件の話を振られて自分の考えを意識するとか、これまたありそうな場面をうまく拾っていて、裁判官も人間であるという当たり前のことを補強している。そういう描写のひとつひとつが架空の事件の裁判を生々しいものにしている。
派手な展開もなく、弁護士が大見得を切るシーンもない。にもかかわらず味わいの濃い法廷劇が最初から最後まで展開される。五十年以上経ってから新装版が出るのは伊達じゃない。面白かった。