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『失われゆく我々の内なる地図 空間認知の隠れた役割』  マイケル・ボンド著/竹内和世訳 白揚社,2022-04-11

何の本、と問われると説明が難しいが、ざっくり言えば人間の空間認知とそれに関係ありそうな脳の機能について語った本。
空間認知はけっこう複雑な機能で、われわれがどうやって場所を認識しているかというのはまだ全然わかっていない。マウスによる実験では、脳には移動に反応して発火する部分があるので、ある程度距離を測る機能があることはわかっている。一度来た角に来るとまた発火する部分があるので、なんらかの形で来た場所を記憶していることも分かっている。しかし、同じ形の部屋を廊下でつないでおいたりすると割とすぐにどこに行ったことがあるかは混乱してしまう。これは人間でもそうかなーというかんじだ。

人間には道を探す(本書では「ウェイファインディング」と書かれている)のが上手な人とそうでもない人がいる。上手な人は、行ったことのないところでも地図を頼りにたどり着くことができるし、着くことができればもう地図なしでも帰ってくることができる。そうでもない人は、地図があっても目的地にたどり着くことができなかったり、ひどく時間がかかったりする。駅を出ていきなり違う方向に歩きだしてしまったりする。ようやく着くことができても、地図なしで戻るなんて考えもつかない。なにが違うのか? あまり明確には書かれていないが、性格、パーソナリティがウェイファインディングの上手-下手と相関があるようだ、というようなことが書かれている。外向的であること、誠実であること、注意深いこと。これは正直あんまりピンと来なかったが、もしかするとそういうものなのかもしれない。因果関係なのか相関関係なのかもよくわからないが。

ただ、成功体験は重要だ、と書かれていて、それはそうなのかもしれないと思った。ウェイファインディングの能力を鍛えるには、小さい頃から自由に歩き回ることが重要なのだ、という。それで、だいたいあっちの方に行けばこの辺に出るはず、という見当をつけてうろうろして、確かに知っているところに戻ってこられた、という体験が力になるらしい。ということを前提において、著者は近年の風潮を危惧する。子供がひとりで自由に出歩ける距離は40年前の数分の一になっている、特に女の子において顕著だ、という。英国では子供が巻き込まれる犯罪は一貫して減り続けているのに、子供たちが歩くことを許される範囲はどんどん狭くなっている。これでは成功体験を積みようがない。
これは自分も思うところがあった。先日、娘を連れてスイミングに行く機会があって、一緒に歩きながら試しに交差点のたびにどちらに進めばいいか娘に決めさせながら進んでいたのだが、けっこう早々と途方に暮れていたし、右に曲がった直後にまた右に曲がろうとしたりして、こりゃほんとに任せてたら日が暮れるぞ、という感じだった。でも考えてみるとこんな風に長い距離を好きに歩かせたことがそもそもないのだし、いきなりできるはずもない。多分、多くの国――少なくとも先進国では、多かれ少なかれこんなようなことが起きているのだろう。

大人も空間認知の能力はだんだん下がっていると考えられている。特にスマホに頼って歩くのはよくないようだ。四六時中ナビに頼っていれば、脳内地図は全く使われることがないままどんどん機能が低下してしまう。それを防ぐためには、当たり前だが意識的にナビ機能に頼らないで歩くことがよいらしい。駅で降りたらそこで地図を確認して、あとはその時に得た方角の手がかりや道中の目印を頼りに歩くこと。たどり着けたなら、帰りはできれば地図も見ないで戻ってみること。

空間認知と記憶にはなんらかの、そこそこ強いかかわりがあるらしいことはいろいろな事実で示唆されている。たとえば、特に家の中で、あることを思いついたのにちょっとしたら忘れてしまったときに、思いついた場所まで戻ってみる、という対処法を聞いたことがある人はけっこう多いと思うけど、あれは実験で有効だと確かめられている方法らしい。空間と記憶にはつながりがあるのだ。典型的な記憶術にも、よく知っている場所に憶えたいものを視覚的イメージに変換してどんどん配置していって、それを一連の映像として憶えるというものがあるけれど、あれも空間と記憶のつながりを利用したメソッドだ。そして、失われるときにもそのふたつにはやはり密接な関わりがある。アルツハイマー認知症の患者は、日常生活に影響が出るより早く空間認知能力が大きく損なわれていることがわかっている。最終的には、崩壊した内的地図しか持たないのにどこかへ向かおうとして歩き出し、もちろん道に迷う。それは一般に「徘徊」と呼ばれるのだが、どうやらもっと悲しくて切ないことが起きているみたいだ。

少しだけ希望も示されている。タクシー運転手の海馬が平均的な人より大きいことは知られていて、おそらく空間認知機能を毎日いっぱい使っているからだと考えられているのだけど、そのことがアルツハイマー認知症による機能低下を防ぐ/補うことができる、かもしれない。意識的に日々ウェイファインディングを行うことで、おそろしい病気から自分を守れるかも。仮にそうでなくとも、自分で道を見つけることができるのはいいものだよな。わりと書かれていることは取っ散らかっているのだけど、妙に心に訴えかけてくるところのある本だった。