黄昏通信社跡地処分推進室

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クイズってなんだ。

ファミ通のアレ

遅ればせながらブルボン小林(以下ブルボン)のコラム読んだ。ファミ通超久しぶりに買ったよ。
最初に書いておくとおれはブルボンの著書『ジュ・ゲーム・モア・ノン・ブリュ』(過去のゲームコラムを集めた本)を持っていてそれはとても気に入っている。以下の文はブルボン擁護ととらえてもらって構わない。
思ったのは、そこまでたいそうな意図があって書かれた文章じゃないんじゃないかなあ、ということ。よいか悪いかではなくて、ただ「メモ使ってるのってかっこ悪くない?」というスタンスの表明に過ぎず、それに関しては「まあ人それぞれですよね」で終わる話だろう。
それと、(おそらくわざとではなく)問題を記憶する「メモ」と所謂「カンニング」を一緒くたにして話を進めているので、この文章が所謂「メモ」全てを否定する意図があるかどうかはわからない、ということははっきりさせておこう。ネットでの反響を見ていると、どうもこの点を落としている人が多いように感じられる。
ただ、「もてねーんだろうな」とか「かかってこいや」とかの煽り方が「芥川賞作家」(=知らない人には「ゲームサークルの外に居る文化人」みたいに見える)っていう肩書きとあいまって、本人の意図よりはるかに強い挑発になってしまったのかなあ、というところはあって、そこら辺は単純にブルボンが迂闊だったという他ない。
今回初めてブルボンの文章に触れて感情的に反発を覚えた人も少なくないと思うし、それは仕方ないことだと思う。でも、この人は「ちょっとゲーム好きな有名人ってだけでゲーム雑誌でコラム書いて小銭稼いでる人」なんかでは決してない。ゲームに対する洞察は独特だし、不思議な形ではあるけど深い愛を注いでる。それは上で挙げた著書を読めばわかるし、もし今回のファミ通が手元にある人は別記事でブルボンが挙げているベストゲームを見てみてほしい。一方的に毛嫌いするには勿体ないライターだと、おれは思う。
擁護終わり。

メモってかっこ悪いのか?

上で触れたコラムでブルボンはダーツを例に引いて、「禁止されてないけど恰好悪いからやらないこと」としてメモをとらえていた(上述の通りここでのメモは「カンニング」を含んでいる)。確かにテレビのクイズ番組とかだとガチな志向のでもメモ取ってる人見たことないし、居たらちょっとかっこ悪いとは思うかも知れない。
「メモとっててもかっこ悪くない人も居るし、メモとってなくてもかっこ悪い奴は居る」というのはみもふたもないけどもっともで、それはつまりこの問題がとても相対的なものであるということを示している。メモを取っている姿は往々にして必死に見えるだろうし、必死になっている姿は興味のない他者から見れば時に奇異であったり滑稽であったりするのは多分確かだけど、やってる方がそんなことはあまり気にする必要はない。
だけど、メモが批判されがちなのってそれだけだろうか?
メモってのは外部記憶装置だ。一方、クイズってのは知識を問い問われるものだ。そのふたつが相容れないのは当然のことで、例えばいわゆる「カンニング」は邪道だと考えている人は結構多いと思う。クイズに相対して外部記憶装置を用いるのは、その本質を損なうものだと考えるからだ。
じゃあ、どこまでがクイズなんだろう。
問題を出されて、答える(あるいは答えられない)ところまで?
それともわからなかった(あるいはわかったけど興味をひかれた)問題について、後で調べてみるところまで?
問題について後で調べて身につけた知識とともに、再びクイズに挑むところまで?
そして、そのうちのどこで外部記憶装置を使ったら、クイズの本質は損なわれるんだろうか。
その問いに対して、意外にも普段あまりクイズをやらない人の方がストイックな回答を持っているのだと思う。その人たちにとっては、上のどこの過程であっても外部記憶装置を使うのは邪道だという意識があるんじゃないだろうか。
一方、聞くところでは所謂リアルクイズではメモを取ってる人も結構居るという。おそらくクイズを好きな人にとっては、それがクイズの本質を損なうことはない、というコンセンサスができているのだろう。
根本的な乖離はここにある。「価値観の違い」と片付けるのはたやすいし、間違いなく真実でもある。でもそこから「叩いてる奴は偏見を持ってるだけ」というところまでしか辿り着けないのであれば、それは(真実であるがゆえに)理解から遠ざかることになってしまうのではないかな。たとえ越えられない溝であったとしても、溝の向こうに居る人の考えを理解しようとすることは無駄ではないと思う。
話すげーそれたな。