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『火星の人』〔新版〕  アンディ・ウィアー著/小野田和子訳 ハヤカワ文庫 SF,2015 



『火星の人〔新版〕(上)』 ISBN:9784150120436
『火星の人〔新版〕(下)』 ISBN:9784150120443


(い)に借りて、一気に読了。これは面白かった! 火星を舞台にしたサバイバルもので、映画『オデッセイ』の原作にもなっているから作品自体はめちゃめちゃ有名だと思う。だから今更ではあるのだが、まあとにかく面白かったので。


人類にとって三回目となる有人火星ミッションで、クルーは無事火星に到着して基地を設営するが、想定をはるかに超える規模の砂嵐に見舞われて6日目にして撤収しなければならなくなる。六人中五人はロケットに辿り着くが、主人公マーク・ワトニーはちぎれ飛んだ基地のアンテナに直撃されて意識を失ってしまう。ロケットが倒れそうな暴風の中、船長は離陸を決断。マークはひとり火星に残された。
冒頭いきなりこの場面から始まるのがすごくよくて、緊張と絶望の中に放り出される主人公に感情移入しやすい。サバイバルものはかくあるべきと思う。そして序盤はずっとマークがノートパソコンに打ち込んだログの形で語られるのだけど、これも王道としてこうあってほしい。生きのびたクルーの回想という形式ではだめなのだ。


「火星版 DASH 村」などと呼ばれていたのをツイッターとかで目にしたことがあったのだけど、なるほどすべて DIY の自給自足と言う意味ではまさにそうかも知れない。四回目のミッションで次のロケットが火星に来るまで生きのびるために何が必要で何をすればよいか。酸素、水、食料、エネルギー、移動手段。植物学者にしてエンジニアという職能を持ったマークはひとつひとつ課題に挑み解決していく。この過程が実に面白い。与えられたリソースを検討し、組み合わせて、必要なリソースを得る。ものが得られるだけではだめで、どれだけの量があれば充分なのかを計算しなければならない。それをマークはユーモアたっぷりに飄々と進めていく。ここの語り口が状況からはかけ離れた明るさで、思わず笑ってしまうようなくだりがあちこちにちりばめられている。

ぼくは高校時代、ずいぶんダンジョンズ&ドラゴンズをやった。(この植物学者/メカニカル・エンジニアがちょっとオタクの高校生だったとは思わなかったかもしれないが、じつはそうでした。)キャラクターは神官(クレリック)で、使える魔法の中に“水をつくる”というのがあった。最初からずっとアホくさい魔法だと思っていたから、一度も使わなかった。

「じつはそうでした」じゃねえよ! あとあんまり意外じゃねえよそれ。
ちなみに識者*1に聞いたところ、《水をつくる/Create Water》はクレリックドルイドのレベル0、パラディンのレベル1呪文とのこと。レベル0魔法の、現実において如何に困難なことよ。


課題設定がまた巧みで、実はマークがしなければならないことは「あらゆること」からはほど遠い。例えば、ハブ(基地)にいる限りは充分な太陽電池があるので掃除さえしていれば電力には事欠かない。つまりエネルギーについては移動するときにのみ問題になる。ビタミン剤は大した重さじゃないので山ほど持ってきているから、食糧問題についてはカロリーさえ満たせれば一応解決できることになっている……といった具合だ。そうはいってもなすべきことはものすごく多く、状況は楽になっているというのにはほど遠い。うまいハンデキャップを与えていると言えるだろう。


単純極まりない物語だが、それだけにハード SF の面白いところが最大限に詰まっているなあという感じがした。現実の火星探査と絡むところとか、読んでておおおーってなるんだよね。この世界と地続きである感じ、をこれほど強く感じられる SF も、だんだん書くのが難しくなっているように思うけど、本作は見事にそれを実現できていると思う。
読んでいて思い出したのはアーサー・C・クラークの「月に賭ける」と「天の向こう側」という作品だった。それぞれのタイトルが六編ずつの掌編からなっている連作短編で、一掌編あたり 1500 語のしばりで書かれてかつ一般誌に掲載されたという宇宙開発もの。たぶんそこまで有名な作品ではないが個人的にはとても好きで、ユーモラスで前向きで宇宙開発に対する希望に満ちているところが似ているように思う。40 年以上前に書かれているので今読んだら流石に古くさくてしんどいだろうけど(そこが SF のつらいところ)。たぶん両方『天の向こう側』に収録されているので、もし興味があれば一読を。


元々はウェブ上で無料で公開されていたものが、大評判になって書籍化され、早々と映画化までされてしまったというのはいかにも現代風で面白い。それだけのことはある作品だということは保証しよう。読むべし。

*1:識者:もちろん id:k_e_l_t のこと。