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『虐殺器官』 村瀬修功監督 ノイタミナ/TOHO animation,2017

まったく個人的な感想を書く。などと前置きするのはだいたい自分の感想が人に読ませるに値するかどうか自信がないときだ。感想に自信もくそもあるまいと思うわけだが人に読まれる前提で書いている以上どうしてもそういう自意識は混入する。おれはあまりにも的外れなことを書いてないだろうか? たぶん書いてることも結構あるのだろう。今から書く文もそうかもしれない。しかしまあそういう的外れだったりするかもしれない感想がウェッブとかで垂れ流されているのははたから見ると基本的に面白いので、おれはその面白さに加担したいと考えている。


で、ちょっと感想書く上でネタバレが避けられないのでこっから先はわりと容赦なくネタバレがある感じになる。それでもよかったら読んでくれ。


原作を読んで、おれはこの話は「死や苦痛を遠ざけようとする主人公たちがしまいには死に追いつかれる話」だと感じていた。苦痛を遠ざけようとすること自体は主人公たちの意志ではなく、単純にその方が兵士として能力が高いからだが、能力の高い兵士であればあるほど自分たちが逃れようとしている苦痛をより効率よく相手にもたらしてたくさん殺す。その単純な矛盾を、苦痛を感じない兵士を作り出した人たちは引き受けてくれないし、テクノロジーでもその矛盾を消すことはできない。ただ兵士本人たちがそれを引き受けなければならなくて、実際にひとりずつ引き受けていく。


そういう風に思ってる立場から言うと、アレックスの死に方が変わってるのは駄目である。アレックスは自分の地獄に自分で飛び込んだのだ。クラヴィスが手を下すことになっているのもよくない。そのあたりの、主人公たちの内面を描く手つきは正直ちょっと雑かなあという感じはした。クラヴィスの母親がらみのエピソードをまるまるオミットしちゃってるのもちょっと大胆すぎる改変で、これだと最後のクラヴィスの選択がさすがに唐突過ぎるとも思う。
例のアメフトに差し替えられた場面は原作では『プライベート・ライアン』の冒頭 15 分なんだけど、人殺しのシーンを笑い飛ばしながら見る(というキャラクターをふたりが演じる、とも言える)、からこそ最終的に死から逃げ切れないふたりの行く末に影を落とすシーンなわけで、アメフトでは圧倒的にそれが弱い。


逆に、戦闘シーンやキャラクターたちが端正でかっこよかったのはよかったところで、主人公たちはかっこよく容赦なくばんばん殺さなきゃいけないわけです。そのために苦痛から切り離されているのだから。その延長としてのリーランドの最期のシーンも中々よかった。もっとグロテスクでもよかったとも思うけれど。


内面側を割り切って切り詰めた分ストーリーは丁寧に追われていて、うまく映像に移しかえられているな、という印象は受けたが、肝心の「虐殺の文法」という大ネタはやはりハッタリ過剰でもっともらしさを欠き、小松左京が生前どうしてもそこが認められなかった、というのは今になるとよくわかる。ラストシーンがカットされたこともあって、残す余韻は原作とはだいぶ違うものになった。ひとことで言えば「これがしたかったのか?」という感じになってしまったように思う。
よく映像化できていたけど、おれが思ってた虐殺器官とちょっと違う、という感じだったかな。たぶんそう感じた人は多かったのではないかと勝手に推測するが、どうだろうか。