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トーキョー・オリンピック

このところ東京オリンピックの開催の妥当性について考え続けている。
今更ながらはっきりさせておくと、おれは相当スポーツ観戦は好きなほうだ。わりとなんでも見るし楽しむたちだと言っていい。オリンピックなんて大好きだ(おれの過去のオリンピックタグの記事→http://d.hatena.ne.jp/natroun/searchdiary?word=%5Bolympic%5D)。東京にオリンピックが来ると聞いて普通にわくわくしているし、すきあらば観に行きたいとすら考えている。
しかしこのところのオリンピックに対する逆風はすごいものだ。おれの観測範囲が偏っている可能性もあるが、今からでも返上するべきだという意見すらインターネットでは散見される。そんなことできるはずがないとおれは考えるのだが、返上派はわりと真面目に言っているように思われる。そこの溝は大きい。おれにとって当たり前の前提がその人たちにとってはまったく当たり前ではないということだ。その溝にはおれは向き合わなくちゃならない。


なぜおれはそんなことできるはずがないと考えるのか? それは、今から返上するのは事実上 2020 年のオリンピックを中止にすると言っているに等しいからだ。代替地が見つかるはずがない。単純に、オリンピックに集まる選手、観客、スタッフを収容できる規模の都市において今から二年後の全競技全種目の会場を確保するなんてことは到底現実的ではない。これは多くの人が同意できることじゃないかと思う。
そして、おれはオリンピックを中止するなんてことはよほどのことがなければ許されないと考えている。
いかに多くのアスリートがオリンピックを目標にしているかはあらためて語るまでもないだろう。直接は目標にしていなくとも、打ち込んでいるスポーツの頂点にオリンピックが位置しているというアスリートもまた数多いはずだ。プロであればそれこそ人生がかかっているのだし、アマチュアであってもそれに近いものがかかっていると言えるだろう。肉体のピーク時に迎えられるオリンピックはせいぜい二回。競技と生まれた年によってはたった一回しかないかもしれない。出場者はそのわずかなチャンスに向けて肉体と精神を研ぎ澄ます。その人たちからオリンピックを奪い去るというのがどのようなことであるか、もう少し考えられてもよいのではないか。
スポーツというのは、どんな競技であってもそれぞれの形で人間の肉体と精神の限界に挑む営みであるとおれは考えている。だからこそ見る者に感動を与えることができるのだ。そのルールが長年にわたってさまざまな者の手によって洗練されてきたことも含めて、スポーツというのは人類が築いてきた大切な文化であるとおれは思うし、オリンピックはその営み/文化の最高峰にある。なれば、リスペクトされるべきイベントではないだろうか。興味を持てない人がいるのは仕方ないとしても、そんなものは返上すべきだというような扱いは不当ではないだろうか。


そう思ってきたのだが、冒頭に書いた溝を見つめているうちに、おれのこの認識こそがまさに溝を産んでいるのかもしれないという気もしてきた。オリンピックを返上すべきだと主張する人は上記のような認識はたぶんしていない。極端に言えばその人たちはスポーツを文化として認めていなくて、肉体を用いたある種の娯楽であるという風に理解しているのだろうと思う(そしてそれはそれで間違いではない)。オリンピックが単にエンターテイメントの巨大な大会であるのなら、二年前に中止にする判断もなしとはしない。損害に対しても金銭で埋め合わせればいい。むしろなんで無理にやらなきゃいけないんだ、という発想も特におかしなものではない。
もしこの国で、そういう風に思っている人が過半を占めるのであれば、それは確かにオリンピックを返上すべきだろうと思うのだ。多数決で決めるようなものではないけれど、半数以上のリスペクトを得られないのであればそこで開催しても仕方がない。


もちろん、現状での東京オリンピック開催にまずい点が多々あるのはわかっている。これでいいとは到底思われない、というか正直なところほとんどげんなりしていて、だからこそうじうじとこのようなことを考えているのだともいえる。ボランティアのこと、競技場のこと、道路のこと、総じてひどくて、なんでこんなことになってるんだと思うけど、それはオリンピックの本質的な価値とは関係ない。正されるべき、糾弾されるべきことだろうけど、それは運営に向けられるべきであって、オリンピックそのものは尊重されるべきだと思う。




一旦そんなところで。