黄昏通信社跡地処分推進室

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悪霊の神々

「なあ」
剣にこびりついたおおなめくじの粘液を拭いながら、僕は気になっていたことを訊いてみた。なめくじの粘液はほうっておくと粘性がどんどん増して、剣に深刻な悪影響を及ぼす。
「なんでカインの魔法はそんなに早く唱えられるんだ? おれが知ってる魔法使いの魔法ってのは、だいたいもっと長ったらしい呪文があって、もっと時間がかかるもんだったんだけど」
カインは遠くに油断なく視線を配りながら目を細めた。草原は見通しがよく、おそらく不意打ちに遭う可能性は低い。それでも油断しないのは性分だろう。
「んーー。説明するともの凄く長くなるんだけど、」
そう言って一旦言葉を切り、少しの間黙って考えてから、続ける。「……魔法の力は、唱える人が持ってるわけじゃない、っていうのは知ってるよね」
「聞いたことはある」
仮にも一国の王子たる者、その程度の教育は受けている。とはいっても文字通り受けただけで、知識の水準は落第に近い。そもそもはなから性に合わないと思っていたし、実際興味が持てなかったし、なにより魔法の才能が全くなかった。
並の素質でも、努力すればそれなりの魔法は使えるようになるらしい。逆に素質に恵まれた者は、さほどの修行も要さずに実用に堪える魔法を使うという。僕の教師は数週間の努力の後にさじを投げた。空の椀に空の鍋からスープを注ぐのは無理だと漏らしていたと、後年人づてに聞いた。それを聞いても腹を立てる気にはなれなかった。むしろ申し訳ないとすら思った。
「……正確に言うとそれも厳密には正しくないんだけど、まあとりあえずおいといて」
カインは話し続けている。「とにかく、力の源は遍在していて、例えば風であったり、お日様であったり、大地であったり、色々なところにたたえられてる。その力を借りてきて利用するのが……ねえ、聞いてる?ローラン」
僕は拭い終えた剣を目の前にかざして点検していたが、耳はちゃんとカインに向けていた。
「魔法ってのは世界から力を借りてるに過ぎないんだろ」
さんざん、聞かされてきた御託。僕には関係のない概念。
「そう。呪文を唱えることによって世界の力を引き出せるのは、唱える人の心の動きが力を動かす引金になっているからだって、今は考えられてる」
この辺りから先が、僕には全くぴんと来なかったのだ。
「その心の動きってのと、あのへんてこな長ったらしい呪文がどう関係あるんだ?」訊いてみる。
うーん、とカインはちょっと楽しそうに唸って、また少し考え込む。
それからこんな説明をしてくれた。いわく、決まった順番で特定の心の動きを呼び起こすことで、魔法は効果を発揮する。その心の動きを順番に再現しやすいように、長年かけて経験的に編み出されたのが、《呪文》と呼ばれる一連の言葉だ。
そんなことも学んだような気がおぼろげにはする。訓練の時にも、呪文の意味にあなたの心を添わせなさい、という助言を繰り返し受けた。憶えるのも精一杯だってのに、これ以上どうすればいいんだ。練習のたびに困惑の度合いは深まっていた気がする。
「だから、その心の動きさえいつもできれば呪文なんてなくても魔法はかけられる。もちろん、すごく難しいけど」
カインはしれっと言って、ちらりと僕の方を見た。
「……へえ」
そこまでとは知らなかった。僕の教師はまず何はなくとも呪文、という態度だったように思う。多分それが普通のやり方なんだろう。でもこういうことを先に知っていれば、あるいは僕の感じ方も変わっていたかも知れない。
「それで、最初の質問の答え」
カインは芝居がかった仕草で左手を挙げてみせた。「ある魔法をかけるための呪文はひとつじゃない。心の動きさえ再現できれば、まったく違う呪文もあり得る」
そう言って右手も挙げる。
「近年は研究が進んでいて、短い詠唱でも同じ程度の効果をあげられる呪文がどんどん開発されてるんだよ。サマルトリアはそういう呪文の研究は比較的得意なんだ。だから僕もそれを学んだ」
ローレシアは遅れてる、ってことか」
僕は思わず訊いた。
そうじゃない、とカインはかぶりを振った。やり方が違うだけなんだ。
古い呪文はそれだけ練り込まれているから、時間はかかるがかかりやすくて効果も強い。ローレシアの魔法使いはそういうスタイルが得意だ。短詠唱の呪文はやっぱり正確に心を動かすのが難しいのだという。
この辺りに来ると、本当のことなのか気休めを言っているのかさっぱりわからない。いずれにしても魔法の使えない僕には関係のない話ではある。
「……それでカインの魔法はかかりづらいのか」
我ながら率直過ぎる物言いだったが、カインは素直に肯いた。「かかりづらい理由の大半は単に僕が未熟者だからなんだけど、短詠唱の呪文を使ってることも絶対関係あると思う」
魔法というのはかかりやすい方が強いのではないのか、と僕は訊いた。
一般的にはそれは正しい、と応じるとカインは僕の方へ向き直った。そして右手を腰に差した剣の柄に軽く当てながら
「でも、僕にはこれがある」と不敵な笑みを浮かべた。
「剣を交えながら長詠唱の呪文を唱えるのは現実的じゃない。せめて短詠唱の魔法にするか、一番理想的なのは呪文なしで魔法をかけること。これはさっきも言ったように本当に難しいけど」
王子はそう言って再び遠くに視線を送った。
と、思い出したように顔だけ僕の方に向けると、目が合った瞬間に「ラリホー」と言った。
僕はじっとカインの顔を見つめ続ける。その向こうに見える空がやたらと青いな、なんてことをどういうわけか思った。
カインは何秒か真顔を保っていたが、ふいと視線を外した。駄目かやっぱり、などと呟きながら頭を掻いている。こういう仕草がおそろしく庶民っぽい。以前会った時にも違和感は覚えていたのだけど、ふたりで旅に出てからはそれが疑念に近いものに変わっている。いったいどうやってそんな仕草を身につけるのだろう。
行こうか、と言って僕は立ち上がった。
僕はカインに言わなかった。先ほどラリホーをかけられた時に、確かに頭の芯がくらっとなる感覚があったことを。それはおそらくたとえ剣戟の最中であっても致命的になることはなかっただろうが、なんとなく悔しくもあって黙っていた。
それがカインの魔法使いとしての経験からすれば信じられないほど強力だったことを、僕はずっと後になってから知ることになる。そしてどうやら、カイン自身もそれには気付いていなかったらしいのだ。