黄昏通信社跡地処分推進室

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悪霊の神々 (2-2)


→前回はこちら→http://d.hatena.ne.jp/natroun/20071228#p1
→初回はこちら→http://d.hatena.ne.jp/natroun/20070518#p1
カインがどうしても鏡を洗うと言って聞かず、僕たちは川まで出て鏡を清めた。幸い魔物には出くわさなかった。汚れはなんとか落としたものの、錆や細かい傷が目立つのは否めず、残念ながら曇りひとつないというにはほど遠い状態だった。それでもとにかくものは映るようになった。普通の鏡となんら変わるところなく、ラーの鏡は僕たちと背後の風景を映した。カインはそれを見て満足げに肯いた。
僕たちは虎の子のキメラの翼を使って、その日のうちにムーンペタに戻った。やっと柔らかい寝床で眠れる、と思ったのだが、カインはもう一日だけ野営すると言う。考えていることが正しければ、今日人目につくわけにはいかないのだそうだ。わざわざ町の東側の外れにまで行って天幕を張った。
荷物を下ろすと急激に体調が悪くなった。たぶんその前からもう充分悪かったのだろうが、ようやくその時気がついた。身体がだるく、頭もふらふらした。単に疲れているというのではなかった。毒の沼地の無理がたたったのかも知れなかった。カインは心配してくれたが、擁壁の内側だから大丈夫だと言うとあっさりそうだねと応じ、独りで買い物に行ってしまった。
留守を守らなければと思っていたのだが、一旦中に入って腰を下ろすと立ちあがれなくなった。ムーンペタは治安が比較的よく、また宿もとらずに町外れにわざわざ野営をするような奴はそれなりに事情があったり備えがあったりするもので、おかげで盗人に狙われるようなことにはならずに済んだが、全く迂闊な有様だった。そのままカインの戻りを待つ心算だったが、目も開けていられなかった。

おそらくは座ったまま眠りに落ちたのだろう。気がつくと日が暮れかけていた。カインは戻って来ていて、天幕の前でごそごそと何かしていた。かすかにぱちぱちと小枝の爆ぜる音がして、煙の匂いが鼻をつついた。背中が背負い袋にもたせかけられている。僕は上体を起こしてみた。少なくとも眠る前よりは気分がよくなっていた。
「悪いな、どうにもだるくて……」
言いかけると、カインは弾かれたように振り向いた。「大丈夫か、ローラン?」
先ほどはあんな風に出て行ったのに、今はその茶色の瞳には微かな不安の色すらうかがえた。僕は逆にそれを見て驚いてしまった。
「大丈夫。だいぶ気分もよくなった。眠っちゃうほど疲れてるとは思わなかったけど」
「僕もそんなに調子が悪いとは思ってなかった。ごめんよ。」
まだじっと僕の顔を見つめている。そこまで心配されるほどではないのだが。
「大丈夫」 もう一度言っておく。
それでもなお数秒視線を据えてから、カインはようやくなにかに納得したように軽く肯いた。「……今からでも宿屋を探す?」
「いや、寝れば治るよ」
これは強がりなどではなく単なる予測だった。「何か計画があるんだろ。わざわざこんなとこに泊まる」
「うん、まあ、そうなんだ。」
カインは正面に向き直りながら言った。どうも歯切れが悪いが、結局それ以上はおたがい何も言わなかった。
少しの間、カインはまたごそごそと火をいじったりしていた。僕は身体も起こさぬままそれを見ていた。
どうして、こんなことをしているのだろう。町を離れている間は忘れていた疑問がまた脳裡に沈むように戻って来る。旅に出た理由は今にして思えば莫迦莫迦しいことだ。旅は楽ではなかったし、何度も戻る機会はあった。それでも城を離れて半年近く経つのにこうしてここに居る。柔らかい布団は恋しいが不思議と後悔だけはない。ただ疑問だけが心から消えない。
「あち、あちち、」
カインが何かを掴みあげようとしてばたばたと手を動かした。何をしているのだ。思わず起き上がって肩越しに覗き込むと、落ち葉や小枝を積み上げて低くおこした焚火の中から、なにか真っ黒な丸いかたまりを取り出したところだった。箸を突き刺してみたりしている。これを焼いていたのか。
「なんだ、それ」
「マルイモ。多分もう食べられると思うんだよね」
言いながら箸で串刺しにした芋をそのまま渡してよこした。反射的に受け取ってしまう。
「真黒だぞ」「皮剥いたら平気だよ。塩つけて食べたらおいしいんじゃないかな」
そういいながらカインはうやうやしい手つきで側に置いていた包みを開いた。桃灰色の岩塩だった。
僕たちは串刺しにした丸芋の皮をべろべろとはがし、カインが買ってきたばかりの塩を砕いてつけて食べた。口の中を火傷しそうになるほど熱く、ちゃんと火が通っていて、信じられないほど旨かった。
我ながら上手くできたな、と珍しくカインが自画自賛している。
さっきの疑問が不意に思い起こされた。もしかするとこれがその答えなんじゃないだろうか。あるいは、答えにとても近いことなんじゃないだろうか。つまり、こうして旨い芋を食べること……ではなくて旨い食事をすることが、いやもちろん食事は城の方が断然いいものが出るのだけど、その食事がここで……いやそれも違うな。
なにかわかった気がしたのだが、言葉にして捉えようとした途端にそのなにかはぼんやりと消えていってしまった。僕は頭を振った。
マルイモとパンだけの夕食を済ませると、ずっと気分はよくなった。もう殆ど治ったような気分だった。すぐに僕たちは寝床に就いた。明日はうんと早く起きるとカインが宣言したが、僕は聞いていなかった。ほとんど一瞬のうちに疲労に引きずり込まれるように眠りに落ちた。

真暗なうちに起こされた。いささか混乱したがすぐに状況は把握した。王女の呪いを解くのだった。暗いうちにランプと鏡をそれぞれ持って外に出た。カインはランプの他に両手で持つほどの布の包みを携えていた。天幕を出ると東の空にわずかに薄明が差しているのが判った。
流石にこの時間は肌寒い。一番鶏が鳴くにもまだ間があり、街はしんとしていた。僕たちは少し迷ったが、結局天幕をたたみ、手に持って出た以外の荷物を全て背負い袋に詰め込んで、各々に背負って歩き出した。
こんな時刻にうろうろしていればそれだけで客観的に見て不審なのは否めない。まして手に馬鹿でかい包みを抱えている。中を見せろと言われれば鏡泥棒と疑われても文句は言えない。と思って気づいたが、疑われるどころかそのものではないか。僕は人に見つからないことを祈りながら歩いた。先を行くカインはそんな様子は微塵も見せない。
いくつかの路地を通りぬけ角を曲がり、やがて少し大きくて少し立派な建物の裏手に出た。前回この町に来た時に見た憶えがある。確か教区教会だった筈だ。
そして、この建物の裏手には。
「起きて。起きて」
カインはもう駆け寄って、小声で呼びかけている。声を聞いて、地面にうずくまっていたその犬ははっと顔を上げると、カインの姿を認めて立ち上がった。白っぽい毛色の何処にでも居るような犬。少しだけ毛足が長いのが強いて言えば特徴だろうか。健康状態はよさそうだ。
これが、王女。
再び目の当たりにしても、やはり僕にはぴんと来るところが一切無かった。ムーンブルクの王女とは数年に一度は顔を合わせている筈で、最後に会った3年前のことはいくらか憶えている。物静かで、ちょっと不思議な雰囲気を持っていた、ような気がする。少しだけ話をしたが、当たり障りのないことしか話題に上らなかった。
カインは犬を従えて、町の東の入口を目指した。先ほどと比べれば連れが増えただけなのだけど、何故か犬と一緒にいると不審さが和らぐ気がした。結局は誰とも遭うことなく、町の東端に辿り着いた。まだ全然暗かった。
「流石にちょっと早過ぎたか」 カインが頭を掻く。
僕たちは背負い袋を下ろしてその上に座り、陽が昇るのを待った。犬も大人しく傍にうずくまった。寒かったが、我慢できないほどではなかった。犬も平気そうだった。
最初は気付かないほど少しずつ白くなっていた東の空は、ある時点を境に急激に明るくなり始めた。町の中心側には遠くに人の姿もちらほらと見え始めた。擁壁に阻まれて地平線は見えなかったが、どちらから太陽が昇るのかはほぼはっきり判った。
カインが立ち上がった。僕もつられて立ち上がる。もう間もなく日が昇る。すぐに擁壁ごしに陽が射してくるだろう。
「ローラン、そこに立ってて」
わざわざカインは念を押すと、東に五六歩離れたところから犬を呼んだ。犬は素直に従い、僕の方を向いて足をぴんと伸ばして立つ。
「きみはここに居て」
カインは犬に告げて僕の側に戻って来る。
僕が本体を持ち、カインが包んでいた布をほどくようにして、ラーの鏡を取り出した。これだったら盗品と思われる心配をする必要はなかったかも、と改めて見て思う。カインが僕が持っている鏡に手をかけて、少し角度を変えて覗きこんだ。僕も一緒に鏡像を見る。ちょうど犬が映る角度だった。
あげかけた叫びが、声にならなかった。
すぐにカインが手を離し、鏡の角度が変わって犬の姿は映らなくなった。厳密に言えばその表現は正しくない。犬の姿は一度も映っていなかったのだから。代わりにそこにあったのは、僕らと同じ年頃の少女の姿だった。
「ローラン」 カインが叫び出しそうな声で言う。
僕は鏡を両手で持ち直して頭上に構えた。ちょうどその時陽の光の射し込む角度が擁壁を越えて、ラーの鏡に届いた。鏡の反射する光が円形に地面に映る。僕はその円形を動かして、犬の姿をその中に捉えようとした。
光の円は犬をその中に収めると突然明るさを増し、間もなく直視できないほどの眩さとなった。終わってみればほんの何秒かのことだったのだけど、目を開けていることができなかった。

光が収まってから恐る恐るまぶたを開けてみると、犬の姿はなくなっており、先ほど鏡に映っていた少女が立っていた。
少女もやはり眩しかったのか固く目を閉じている。と、その双眸がゆっくりと開かれた。深い紫色の瞳、瞳よりは淡い紫色の微かに波打つ髪。まごうことなきムーンブルクの王女だった。本当に犬の姿にされていたのだ。
そして鏡に映っていたとおり、文字通り一糸まとわぬ姿だった。僕はどこに視線をやっていいかまったくわからなくなっていた。
驚くべきことに、カインが一歩踏み出して、先ほどまで鏡をくるんでいた布(と見えたもの)を王女に差し出した。「これを着て」
そう言われて王女は初めて自分の身体を見下ろした。何も着ていないことに気づくと頬をさっと赤らめたが、こんなことはなんでもないとでもいうように手を出して長衣を受け取った。「ありがとう」
王女が生成りの衣に身を包んでから、ようやく僕はそちらをまともに見られるようになった。
背が伸びたな、という印象をまず受けた。僕だって相当伸びた筈だが、身長の差はそれほど変わっていないように思える。あどけなさが残っていた顔立ちは一変していた。うまく言い表せないのだけど、なにかが大きく変わっていた。
「ほんとうに元の姿に戻れたのですね。まだなんだか信じられなくて」
王女は戸惑いを隠し切れない様子で、それでも比較的しっかりと話し出した。「申し遅れました。私はムーンブルク王国第一王女、フィルス・カーファクス」
そう名乗ると、王女はごく軽く膝を折って略式の礼をしてみせた。その所作の滑らかなことに僕は軽く驚いて、自分が驚いたことにも驚いた。
「僕はサマルトリアのカイン・サウリイ」 カインは姓名だけ名乗る。
ローレシアのローラン・ドークト」 僕も倣って名乗っておく。
「おひさしぶり、ふたりとも」
フィルスは初めて、わずかの間ながら微かに笑みのようなものを浮かべた。
カインはいつもの調子を崩さない。「積もる話もあるんだけど、ここで旧交を暖めるわけにもいかないので」
そう言って地面に置いていたもうひとつの包みから木靴を一足取り出し、王女の足下に並べて置いた。
「足に合うかどうかわからないんだけど、これを履いてください」
フィルスは目を見開いたが、何も言わずに肯いて、カインの用意した木靴に足を履れた。わりと大きさはちょうどいいようだ。木靴を履くといよいよカインとそれほど背丈が変わらないように見える。
「ありがとう、いろいろ」「いえ」
「……それを貸してくださる?」
王女が言った。カインはわずかに訝しげな表情を見せながらも、木靴を包んでいた端切れのようなやや細長い灰色の布を手渡した。汚くはないがあまり綺麗な布とも言えない。しかし王女は意にも介さず受け取ると、両手に持って眺めた後、長い辺に沿ってびいっとさらに細く引き裂いた。
そしてその細い方を紐のように使い、頭の後ろで髪の毛をひとつに結わえると、残りの布をおでこの上辺りから耳の後ろの方までふわりと巻き付けた。
「町民の娘みたいだ」 僕は率直に感想を口にした。
「そう見えているといいのだけど」 フィルスは不安そうに頭に触る。
「見てごらんよ」
僕はまだ両手に持ったままだった鏡を王女に向けようとした。その時初めて鏡の異変に気づいた。古びているとはいえ普通に景色を写せる程度ではあった筈の鏡面は、今はどす黒く濁ってしまい、光をとらえることすらできなくなっていた。
「……力を使い果たしたんだ」 カインが呟くように言った。
ラーの鏡ですね」
フィルスは言った。「ムーンザルツのずっと東の方の祠に置かれていた筈だけど……ごめんなさい、話はあとよね」
「うん、謝ることはないけど」
そう言いながらカインは地面に置いていた背負い袋を背中に担ぎあげた。僕もそれを見て自分の背負い袋を持ち上げる。
「教会に行こう」
「そうですね」 王女も同意した。小さく息をついて、僕たちふたりの顔に順に視線を送る。「……聞きたいことが、いくつかあります」
カインは口の端を左右に引き結んで肯いた。「そうだろうね」